狐の嫁入り

小説創作ブログ! のつもりでしたが、なんかだいぶ違う気がします……

【黒歴史】昔書いた小説を晒します

               「花火はみえない」

                                  ミズノ

1.

 どん、とおなかの底に響くような低い音で目が覚めた。眼のふちをこすりながら起き上がると、今度は三つに連なった音が空気をかすかにふるわせた。私はベッドから降りて、流しにおいてあったコップに水を注いで一気に飲み干した。喉を流れる冷たい水は、うだるような暑さに火照る体から熱を奪って滑り落ちていく。
 流しにコップを放り込んで、小さなベランダに面した窓から外を覗いた。今年は花火なんて見ないと決めていたのに、いざ始まってしまったことがわかると、あのはじけては消えていく光の群れを妙に恋しく感じた。三階分の高さは十分に思えたけれど、花火は見えない。遠くに立つビルが邪魔をしているからだ。
 私は失望とともにベッドにもう一度倒れこんだ。自分の体温が残った布団と、熱気をはらんだ大気に包まれてもう一度目を閉じたところで、枕元に置いたスマートフォンが着信を告げた。手に取ってボタンを操作する気になれなかった。「相良日名子」の名前とともに電話アイコンが揺れるのをぼんやりと眺めていると、規定の一分が過ぎたところで着信音が止まった。小さな画面から放たれる強い光が消えて、薄暗い闇が再び私を取り囲んだ。
 部屋の隅にかかった時計を見ると、もう七時を過ぎていた。時計を眺めていると、急に現実感が沸いてきて、一つだけ思い出した。自分の能天気さに、思わず苦笑してしまいそうになる。
 まだ、夜ご飯を食べていなかった。

 

2.

 外に出て歩いてみると、少しだけ気分が晴れた。夜空にはうっすらと雲がかかり、風が吹くたびに月の光が明滅を繰り返した。夜道にはいつもよりも人通りが多い。きっと、花火を見るために外に出てきたのだろう。中にはカップルの姿もある。鮮やかな浴衣姿が、Tシャツにジーンズというラフな格好と並んでゆっくりと歩いている。顔を見合わせたとき覗く横顔は、どことなく幼い笑みをたたえている。高校生くらいだろうか。大学二年生の私はもう、彼らの後ろ姿をまぶしく感じる。人は一年に一歳ずつ年を取っていくけれど、一年の長さはいつも一緒なわけではない。二十歳の誕生日は大きな喜びと、そして小さな絶望と一緒にやってきた。これからは、少しずつ喜びの比率が小さくなっていく、そんな予感がしていた。
 彼らはちょっと立ち止まったと思うと、駆け足で道路を横断してコンビニに入っていく。私は思わず、逃げるみたいに彼らに背を向けていた。認めたくなかったけれど、私はこれ以上、あのきれいな浴衣を見たくなかったのだ。

 

「花火を見に行こう」
 前沢明人は、自分の口にしたことを、ほんの些細なことまできちんとやってくれる人だった。一緒に花火を見に行くこと、それは難しいことでもなんでもない。きっと、そのうち私を誘ってくれると思っていた。けれどその約束は果たされなかった。
 前沢から別れを切り出されたときの私は、驚きも悲しみも感じなかった。私が一番初めに思ったことは、花火を見に行く約束はなかったことになるんだな、なんていう場違いなことだった。
 一枚の美しい写真を火にくべたみたいに、私の想像の中の風景が灰になって消えていく。前沢は、一目ぼれしたと言った。馬鹿みたいな言い訳だと思いながらも、私は神妙な表情を繕ってゆっくりと頷いていた。それどころか私は、
「応援する」
 なんて、心にもないことを口にしていた。あっさりと関係を断ち切ったふりをしたのは、前沢が、ほんの少しでも自分の決意を後悔してくれればいいと思ったからだ。けれど、私の考え方はどこまでも浅はかだった。
「ありがと」
 そう口にした前沢の表情は、ほっと安心したように緩んでいた。あ、後悔はしてくれないんだ、今、失敗したんだと、私はすぐに気がづいた。
 前沢はゆっくりと立ち上がると、私に背を向けて部屋を出て行った。
 私は涙を浮かべでもして、後ろから抱きつきでもすればよかったのか、そうすれば前沢はもう一度こちらを振り向いてくれただろうか。そんなことは私にはできそうになかったけれど、あの時点では少しだけ可能性のあった別の世界を、私はつい夢想してしまう。

 

3.

「どうなさいましたか?」
 レジの店員さんは、きょとんとした表情を浮かべて私のほうにレジ袋を差し出していた。私は小さくすみません、とつぶやいてレジ袋を受け取ると、逃げるようにしてコンビニの自動ドアをくぐって、冷房の効いた室内から外に出た。もう一度、夏夜の熱気が私を包み込んだ。
 夕ご飯を買いに出ただけなのに、思ったより遠くまで歩いてきてしまった。近くの交差点には信号がなくて、何人かの警備員の人が赤色のライトで車と人を誘導しているのが見えた。さっきより、ずっと多くの人や車が行き来していた。もう少し歩けば、花火が見える堤防に出られるのだ。
 私は人だかりの背を向けて、もと来た道を引き返した。背後から、どん、という低い破裂音と、にぎやかな話し声が私を追い立てた。下を向いて歩いていたから、目の前から誰かが歩いてきたことに気付いたのは、視界の片隅に見覚えのあるサンダルの柄が見えてからだった。
「来たんじゃん」
 耳に心地いいよく通る声は、少しだけ笑いを含んで揺れていた。子供のいたずらを見つけたみたいな笑みを浮かべて私を見上げていたのは日名子だった。
 日名子は大きく一歩を踏み出すと、すれ違いざまに私の手首をつかんだ。そのまま速足で歩きだすから、私は抵抗する間もなく、小さな背中に引っ張られて歩きだした。
「行こう、早くしないと終わるよ」
 やわらかい素材のサンダルが、歩くたびにぺたぺたと間の抜けた音を立てた。ずっと一人でいたから、話の仕方さえ少しぎこちなくなる。
「ごめん、電話、くれたのに」
「え、何? 聞こえない」
 堤防に上がる緩やかなスロープを歩く。ここを登り切れば、もう見えるのだ。日名子はまだ私の手首をつかんでいたが、痛い、とつぶやくと離してくれた。日名子は、また速足で私の前を歩く。
「あのさ」
 前を向いたままでも、日名子の声はよく聞こえた。
「茅野の良さがわかんない奴なんて、みんなクソヤローだよ」
 最初は何を言われているのかわからなかった。数秒経って、日名子がずっとその話をしようとしていたことにようやく気が付いた。
「私も悪かったんだよ。気づかないうちに、嫌なことをしてたのかもね」
 日名子は考えた風に私のほうを眺めていた。それから、
「茅野は悪くない」
 根拠なんて一つもない主張なのに、その一言は私の心をすっと軽くした。こういう時、私はこの小さな背中が友達でよかったと思う。
「前沢が悪いってことにしとこう」
 私たちはもう堤防の上に出ていたた。遠くで、見覚えのある四・五人の集団がはしゃいでいるのが見えた。そのうちの一人が、私と日名子に気付いて手を振った。
「でも」
 私はこの期に及んでも、まだ善人のふりをしてふるまうことばかりを考えている。
 ひゅうう、と、花火の玉が笛のような音を奏でて宙へ放たれた。堤防にいる人たちはみんな一斉にその音に耳を傾けて、一瞬の静けさが周囲を覆った。
「少なくとも、今くらいはいいんじゃない」
 今までで一番大きな爆発音が、私の体を震わせた。うっすらと残るまっすぐな軌跡の先で、色とりどりの火花が勢いよく飛び散り、巨大な炎の花を夜空に咲かせた。
 周囲からは小さな歓声と拍手が巻き起こる。私は、滑らかな曲線を描いて夜空に消えていく火花の軌跡をずっと眺めていた。
 日名子も夜空を眺めていた。ずっと黙っていたと思ったら、ふいに私のほうを向いて、
「終わっちゃったじゃん、茅野が早く来ないから」
 文句を言う日名子に、私はごめんと謝った。茅野のごめんは信用できないからなーとぼやく。果たしは思わず、自分の頬が緩むのを感じていた。
「また来年も、来よう」
 そう私がつぶやくと、日名子は、はっとしたようにこちらを見て、それから歯を見せて笑った。
「来年は、ちゃんと電話でてね」
 ごめんって言ってるのに、と、私は勝ち目のない反論で応戦する。日名子は私の話をもう聞いていなくて、遠くではしゃいでいた友達たちに大声で何か叫んでいた。
「行こう、これから宅飲みするから」
 日名子は足早に彼女たちのほうに歩いていく。私はその後についていきながら、もう一度夜空を見上げた。
 今年は花火なんて見ないと決めていたのに、最後の一番大きな一発をこの目に納めてしまった。その余韻は、心に強く刻まれて消えそうにない。
 今この瞬間に肌に感じる暑さを、目に移った風景を、心のどこかでくすぶるどうしようもない気持ちを、何年、何十年たった後も、何度でも、鮮明に思い出すことができると私は確信していた。
 果たされない約束、浅はかな策略、鳴り続ける着信音、夏の夜のうだるような暑さ、夜空に向けて打ち上がる軌跡、楽しいことや、嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと、すべてを夏の夜空に打ち上げて、花火は色とりどりの光を放つのだ。
 早くー、と遠くから呼び掛ける声に急かされて、私は慌てて駆け出した。

 

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