狐の嫁入り

小説創作ブログ! のつもりでしたが、なんかだいぶ違う気がします……

【黒歴史】昔書いた小説を晒します②

こんばんは、ミズノです。

以前の黒歴史がわりと好評だったのでシリーズ化を考案しています。

今回のは森見登美彦をめっちゃ意識してますね……

youmizuno.hatenablog.com

 

 

                 「ナトリウム爆弾」

 

                                 ミズノ

 ナトリウムは、原子番号十一、質量数二十二、白色の固体である。金属であるのに柔らかく、ナイフで簡単に切ることができる。反応性に富み、大気中に放置しておくと大気と反応して発火するので、危ない。そのため、空気と反応しないように石油中に浸して保存する。私が高校生のときに読んだ化学の教科書にはそう記述があった。

 しかし、日本の科学教育において良く批判される事例の通り、私が始めてナトリウムに触れる機会を得たのは、始めて授業で習ってから七年も後のことだった。私は高校を卒業し、化学に興味を持っていたので化学科のある大学に進学した、学部では楽しい三年間を過ごし、四年時には研究室に配属され、研究の門戸を叩くことになった。教科書に書いてあることが、たんなる文字の羅列ではなく実際にあるものなのだと知ったのは、配属が決まってしばらく経ったある日のことだった。

 その日、私は研究室の実験装置の前にいた。ステンレス管の中の真空を維持するため、私は慣れない工具と格闘しながら実験器具をいじり倒していた。かたわらでは、私の指導にあたる先輩が、緊張した面持ちで私の作業を見守っていた。たぶん、私がいつ装置を壊すのかと、心配していたからだろう。

 結局、目立ったミスもなく実験は無事に終わった。同時に先輩の緊張がほどけたようにほっと息を吐いた。

「友、今日の夜、空いているか」

 ガラス機具を洗いながら、先輩が訊いてきた。私は、先輩から受け取ったガラス機具の水分を拭き取っては棚に戻す作業に従事していた。分担したほうが、はやく終わる。

「空いています」

「遊びに行こう」

 そのとき先輩は、薬品庫から小さな小瓶を取り出して、ポケットに忍ばせた。

 

 出町柳通り前のバス停で待ち合わせた。私がバス停に着いたとき、時刻は午後七時の数分前だった。観光地でもあるこの通りには、土産物屋がずらりと並び、観光客らしい人々がひっきりなしに行き交う。先輩は、バス停のすぐそばのベンチに腰をおろした。

「や、これ食うか」

 先輩は顔を合わせるなりみたらし団子のパックを差し出した。近くお屋台で売っていたからだろう。

 団子をほおばりながら通りを歩いて行くと、鴨川にかかる橋に出る。川沿いには、男女のペアが何組も、同じ距離を開けて並んでいる。これは鴨川等間隔の法則というのだと先輩は教えてくれた。たんなるゴシップなのに、そのときの先輩は、実験で用いる化学公式を説明する先生めいていた。

 先輩は、鴨川等間隔の法則を教えるために私をここまで呼んだのだろうか。だとしたら少し迷惑だ。バス代も、往復でかかるし。

 先輩は橋の欄干に手を置いて、川の上流を眺めている。川の上流にも下流にも、その岸辺には、しっとりと互いの時間を共有する一組の男女が、無限のかなたまで並んでいるように思えた。私はなんとなく腹が立ってきた。

先輩は、橋のたもとで談笑するカップルに目を向けた。そのとき、先輩の横顔は変にゆがみ、唇のすきまから白い歯が覗いた。先輩はカップルのほうを注視したままポケットに手を突っ込んだ。そこから取り出したのは、灰色の液体がつまったガラス瓶と、実験用のピンセットだった。

 先輩はピンセットを指の間に挟んで両手を自由にし、ガラス瓶の蓋を開けた。すると、ガソリンの匂いがあたりに立ち込めた。ガラス瓶の中に詰まった液体を良く見ると、中には四角い物体が浮かんでいる。私が始めて本物の金属ナトリウムを見たのはこのときだ。

 先輩は、ピンセットを使って慎重にナトリウムをつまみあげた。四角く切り取られたナトリウムは、一般的な金属のように、街灯の光を反射して金属光沢をしめしていた。ピンセットの先端で、白い煙が上がる、空気中で、ナトリウムが化学反応を起こしているのだ。

「友、良く見えてろよ」

 先輩は白く煙る金属ナトリウムを、川に向かって放り投げた。

 ナトリウムは、さきほどのカップルから近いところに着水した。男の方は、ぽとん、と何かが水につかる音に気付いた。次の瞬間、そこから数メートルほどの高さの水柱が吹きだした。

 今、まさに彼の手を取ろうとしていた女の子は、立ち上がりかけて転んだ。男の方はいちはやく爆発を察知し、飛ぶように川から離れた。橋の上にいた人たちも、何が起こったのかと周囲を気にし始める。私は驚いて声が出なくなっていたが、川辺で体勢を立て直した女の子と目があってしまって、

「逃げるぞ」

 ぼんやりしていた私を、先輩はぐいと引っ張った。夕闇の中をかけて、人混みの中に紛れてしまえば、もう追ってこられはしまい。

 幸いにも、薬剤の無断持ち出しと不正使用は公にならず、誰にも咎められることはなかった。私は、ナトリウムの取り扱いについては、それ以降、特に注意するようになった。それが狙いだったのであれば、先輩の教育は実に適切だったと思う。

 

 先輩は、その年に大学を卒業した。卒業後は研究からは遠く離れて市内にある会社に就職し、営業の仕事をしている。私は、大学院に進学した。今は、修士論文の完成に向けて実験データを蓄積している。忙しくなっていくにつれて、互いのために割ける時間は目減りしていったが、しかし私と先輩との付き合いはまだ続いている。

 

 私がまだ学部生のころ、興味本位で他の学部の授業に忍び込んだことがある。先生は原子核物理を専門にしている人で、授業は核融合についての話だったと思う。ヒョロっとした眼鏡の、いかにも人の良さそうなおじさんだ。このおじさんの頭の中に、地球すらも一撃で爆破できるだけの知識が眠っているなんて、驚きだ。

 ともあれ、その先生はこんなことを話した。

核融合と恋愛は非常によく似ています。原子と原子は、互いに距離が遠く離れているときはエネルギー的に安定な状態で、互いに影響を及ぼしません。しかし、原子同士の距離が近づいていくと――人間にすると仲良くなっていくことに相当しますね――互いに引力が働き、相互作用によってエネルギーが上昇していきます」

 先生は黒板に、なめらかに上昇していく曲線を描いた。

「そして、原子核同士が近づいていくと、あるところでポテンシャルによるエネルギーの総和が最大値を迎えます。そこからさらに接近して、原子同士が結合するとき、今度はエネルギーを外部に放出し始めます」

 右肩で上昇を続けていた曲線は、山を描いて今度は下り始める。

「こうなったら、後は冷めていくだけです。燃え尽きないように、適宜燃料を投下して維持に努めなければならなくなります」

 そして、先生は諦めるようにこう添えた。

「そして、そうなってからが、一番長いのです」

 ほとんどの生徒は、講義を真面目に聞いていなかったし、私も飽きて途中から眠っていた。だけど、この話だけはやけに頭に残っている。

 

 先輩は頭が良いかもしれないけれど、少し臆病なところがある――そのことが分かるくらいには、私は先輩との付き合いを長く続けている。

 

 先輩は、相変わらずよく鴨川沿いを散歩する。私も隣に並ぶ。先輩の住むアパートは川沿いにあって、窓辺に座って外からの涼しい風に吹かれていると、外に出たくなってしまうのだ。

 歩く途中、適当なお店に入ってご飯を食べる。先輩は忙しそうだけれど、それでも楽しそうだ。互いの近況を簡単に報告する。お互いにどんどん忙しくなって、滅私奉公とはこのことかとばかりに、自分や大切な誰かのために使える時間が減っていく。

 夕食を終えた後、鴨川沿いに腰をおろして休憩した。鴨川等間隔の法則は、何度も見ているうちに見ていたら慣れてしまって、なんとも思わなくなっていた。

 夜風に吹かれながら、橋の欄干に設置された街灯や、夜店の暖かい光を反射してきらめく川面を眺めていると、どうしようもない愛しさがこみあげてきて、思わず先輩の右手を握ろうとしてってしまった。人差し指の先に、ごつごつした固い皮膚を感じた。

 そのとき、橋のほうから声が聞こえてきた。背の高い男が、橋の欄干に手を置いている。その後ろで女の子が立っている。街灯の光が逆光になって、顔や表情ははっきりしない。ぼんやりとした輪郭が分かるだけだ。

 背の高い男は、片手に何かを持っているようだった。それはが強く光を反射して、金属めいた光を放っている。

 男は、何かを川に投げ入れるようなしぐさをした。

 

 ぽとん、と水音が鳴る。小石が投げ込まれたのかと思った、すると次の瞬間、私の視界を塞ぐような水柱が、水面から立ちあがった。私はとっさに逃げようとしたが、立ちあがるのに失敗して転んでしまった。

先輩は、すでに離れたところにいて、爆発の余波に揺れる水面を眺めていた。

「大丈夫か」

 先輩は恐る恐るといった様子で聞く。大丈夫だったけれど、つい目をそらしてしまった。

 そのとき、たまたま橋の上にいた女の子と目があった、と思う。遠目だし、欄干に取りつけられた街灯が逆光となって、表情はみえなかったが、シルエットだけでそれと分かった。彼女は、驚いて見動きが取れなくなっているように私には見えた。しかし、隣の男に引っ張られて慌てて駆けだした。

「ったく、なんなんだあいつら」

 先輩は苛立たしい様子で言う。

 

 しかし、私はその光景に、怒るのも忘れてつい見とれてしまった。

街灯の暖かい光と、行き交う観光客の間に消えていく二人の影をずっと眺めていた。

 二人は、互いの手をしっかりと握って、美しい影絵のごとく夜の明かりの中を駆けていった。