狐の嫁入り

小説創作ブログ! のつもりでしたが、なんかだいぶ違う気がします……

コミュニケーションは会話する前に八割が終わっている

なぜ相手はラインを返してくれないのか?
どうすれば会話が続くか?

これは多くの人の持つ共通の悩みだと思う。その悩みに答えるべく、世にはコミュニケーションに関わる書籍が嫌というほど出版されている。かくいう私も、人とのコミュニケーションが苦手と感じていて、そういう本を死ぬほど読んだ。
「天気は誰とでもできる共通の話題だ」
とか
「話すことより聞くことが大事だ」
とか、いかにして話題を作って話を続けるかというテクニックが世にはあふれている。

ただ私は、そういう小手先にテクニックに異議を唱えたい。何より私が思うのは、コミュニケーションが苦手と意識している人は、たいていの場合はコミュニケーションが苦手ではない。

コミュニケーションが成立しないのは、ただ単に、相手が自分に対して興味や関心を持っていなくて、この人と会話するために時間を割きたくないと思っているためだ。。
悩んでいる人が求めているのは、自分に関心がない人を楽しくさせるたなんていう超高等テクであって、そんなものを持っている人はホストにだってキャバ嬢にでもなったほうがよっぽどお金が稼げるだろう。
話が続かない時、攻めるべきは自分だけではなくて、コミュニケーションの努力をしてくれなかった相手も同時に責めるべきで、もしくは、自分に関心を持てないようなバックグランドを擁するに至ってしまったそれまでの歴史に思いを馳せるべきで、コミュニケーション不全なんていう、よくわからない理由で自分を否定してはいけない。
これは学生時代の自分に教えてあげたい一番大切なことだと私は思っている。

学生時代の私はお金がなかった。身なりに気を遣うという考え方さえなくて、ただ学ぶために大学に行くなんていう、勤勉という概念をしっかりとインストールされたいわゆる「真面目な学生」だった。
部活にも入っていて、そこそこ女子もいるところだったけれど、周りの人から自分はそこそこ遠巻きにされていたと思う。その理由は、私が本当に勉強のことしか考えて楽しむことが苦手だったからだし、何よりも人に良い印象を与える見た目や振る舞いを身に着けてこなかったからだ。
どうすればたくさんの友人ができたかというと、人に違和感を与えない立ち振る舞いと服装、それと人並みの常識を早い段階で身に着けておくことだったと思う。勤勉さや真面目さっていうワードはそれにそぐわなくて、必要なものは、他人が求めているものを察知するマーケット的な考え方だった。そこにはいいも悪いも、真面目も不真面目もない。

当時の私は、外見は人を現さないという考え方を強固にインストールされた素直すぎる学生だった。人が外見や立ち振る舞いで態度を変えることにやっと気が付いたのは、大学院二年生になって就職活動を始めてからだ。
志を持って、自分のやりたいことをしっかり伝えればいい会社に巡り合える、という思想を持っているうちに受けた企業は全滅だった。

が。

あれ、もしかして、人は人の「内面」とかいう意味の分からないものを見てないんじゃないか? わかりやすく説明しやすい肩書や大学名、持っている資格、喋っている印象のほうがずっと大事なんじゃないか? という考え方を身に着けた後、続けざまに三社から内定をもらい、自分が今まで世界にたいして理想を抱きすぎていたことを悟った。
そういう理想を長い間見せてくれた家族という存在には感謝もあるけれど、一方でもうちょっと現実に即した教育を施してくれるのはもっと早ければと思うこともある。

人は人を外見で判断しないと思いたがる生き物だけれど、どうやってもその傾向からは逃れられない。「会話が続かない」問題は、コミュニケーションに難があるんじゃなくて、会話を始める前に十分な関心を相手に持たせられていないからなのだ。

「会話」というのはいわば確認なのだ。自分の興味や関心、期待していたことが本当にそうか。それを確かめるために人は話をするのだ。会話の前の関心がなければそもそもコミュニケーションは成立しない。

つまるところ誰かと仲良くなりたければ外堀埋めようね、という話です。