狐の嫁入り

小説創作ブログ! のつもりでしたが、なんかだいぶ違う気がします……

【長文】私が神様を信じるようになったきっかけを話そうと思う。

初詣は馬鹿々々しいと思っていました。

 

神様は人が勝手に作ったもので、願いをかなえてくれることなんて万に一つもない。存在しないものを妄信するなんてみんな馬鹿だ、と私は思っていました。

 

今でも、私は雲の上に神様がいないことを確信しています。ただ一方、神を妄信する人が一定数いることも承知しています。

私の会社の先輩は、信じていそうな人でした。

 

先輩は時々飲みに誘ってくれます。何の弾みか、結婚と子どもの話になり
「地元の妻が妊娠した」
と先輩は言いました。先輩は九州から中部地方へ出向しているので、なかなか妻に顔を合わせられず悪いと思っているようです。
「一回流してしまって、気が気でないんだ」

その話は妙に私の頭に残りました。

 

神様は信じていませんが、お寺の持つ静謐な雰囲気と木々に囲まれた空間は気に入っています。それで私は、近くの神社によく散歩に出かけます。先輩と話をした数日後、私はふと神社の販売所を覗きました。
『縁結び』
 のお守りを見て皮肉な気持ちになったのは言うまでもありません。が、その隣にあった『安全祈願』のお守りを見てふと先輩の話が頭をよぎります。

さんざん奢ってもらった借りを少しでも返そうと購入し、ある日先輩に渡しました。私は神様を信じていませんが、出産を前にした人へのお礼にぴったりだと思ったのです。大したものでもないと思ったので、私はそれきり忘れていました。

 

半年とちょっと経ったでしょうか。先輩から、子どもは無事に生まれたと報告を受けました。
「本当にありがとう」
と、感謝されて、私は戸惑いました。
「お守り、役に立った」
 説明を聞くと、難産だったそうです。いろいろの前準備にもかかわらず、結局切開して子どもを取り出すことになりました。

 

分娩室にいる間、先輩の妻はお守りを手に握りしめていたそうです。

 

「なんというか、全然知らないところで買ったお守りっていうのが、凄く嬉しかったらしくて」
 と、先輩の説明もほわっとしています。

私はその場に立ち会ったわけではありませんが、ベッドから投げ出された細い手が、あの薄いピンク色のお守りを握りしめている映像が頭に浮かんできました。


お守りに人を守る力はありません。ただ、誰かが自分のことを思っていてくれたことの象徴になる。そのことが人に気力を与えるのだと思います。

この時私は、神様や神社、お守りというものがなぜあるのか、腑に落ちた気がしました。

 

神様や神社は、この先うまくいく、とか、未来はきっと良くなる、ということを、みんなで信じるために作られたものだと私は思います。
未来がよくなる保証はありませんが、信じることはできます。信じれば変わる可能性が出てきます。かのマザーテレサも、行動は心から変わる的なことを言っていました。

 

つまるところ神様は、願いをかなえる全能のものではなく、願いをかなえるための前向きな姿勢を維持するための仕組みのひとつなのです。

 

よくできた仕組みと感心しました。だから、歴史の彼は奈良の大仏を立てたし、また誰かは伊勢神宮なんて作ったんでしょう。確かに、あれだけ立派なものを作れば、人の力を超えた何かが存在するような気分になるのが不思議です。まあ、それも人の手が作ったものに違いないんですが。

 

ともかく、いるかいないかは別にして、幼い妄信から若い不信を経てようやく、私は神様を信じられるようになりそうです。

 

そういう訳で、来年の初詣は、きちんとお賽銭とお祈りをしようと思います。